紹興酒のふるさと紹興市

紹興酒のふるさとである紹興市についてご紹介します。

東洋のベニスとも言われる水郷、紹興

上海から車で約3時間、杭州から約1時間

訪れた誰もが心をひかれてしまう。水辺の雰囲気が、そうさせるのでしょうか。上海、杭州といった大都市からもほど近く、それでいて中国のいにしえの風情を感じさせる街。

名所旧跡も数多く、1日ではとても味わい尽くせません。古くは呉越同舟で有名な越国の首都として栄え、いまは世界的に名を馳せる紹興酒の故郷。街を縦横無尽に走る水路。運河を渡る烏篷舟(うほうせん)。

水郷紹興の重要な輸送手段だったこの靴のような船も、いまでは主に観光客を楽しませていますが、器用に足で櫓を扱う技術は必見です。また数多くの橋もこの街の名物。じつに千とも一万とも言われています。

偉人たちに育まれた、紹興

紹興の誉れ、魯迅

紹興を訪れた人のほとんどが足を運ぶ。この街の中心部に、中国近代文学の祖とも言える大作家の記念館や生家などの施設があり、いつも多くの観光客で賑わっています。作家の名は魯迅。本名を周樹人といい、1881年に紹興で生まれました。

彼は若いころ留学生として日本を訪れ医学の道を志しますが、たまたま見たニュース映画に衝撃を受け「中国人を救うのは医学でなく文学による精神の改造である」と決断。以来『阿Q正伝』をはじめとして『狂人日記』『故郷』などの名作を次々と発表します。紹興には魯迅の叔父が開いたとされる咸亨酒店が今も残り、この店を舞台にした短編『孔乙己(こういっき)』の像が店先に。

「私は12歳のときから、村の入口の咸亨酒場で、小僧をやったが…」と書かれるこの小説は、科挙の試験に受からず落ちぶれていった秀才孔乙己の悲哀を描きながら、当時の紹興人たちの息づかいを見事に表現しています。

書道の祖とされる王羲之

永和九年…で始まる『蘭亭序』は史上もっとも有名な書として知られ、それを溺愛した唐の太宗(李世民)は崩じる際に自分と一緒に埋葬することを命じ、もはや真筆は現存しない。そればかりか唐代の拓本までも貴重品として国宝に指定されたり、彼の書を学んだものでなければ科挙の試験に通らなかったとさえ言われる書聖・王羲之(おうぎし)。

筆勢にすぐれた端正な書風で「書」を芸術の域に高めたと讃えられる彼がその蘭亭序を記したのが、紹興のはずれにある蘭亭です。東晋の永和九年(353年)、この地に長官として赴任していた王羲之は、蘭亭に多くの名士を招いて曲水流觴(きょくすいりゅうしょう)の宴を開きました。

曲がりくねった流れに紹興酒をなみなみと注いだ杯を浮かべ、その杯が前に止まった人は自作の詩を即興で朗詠するきまり。即座に思い浮かばなければ罰として紹興酒を飲み干さなければならない。じつに風流な宴です。いまは観光地として整備され、日本をはじめ世界各地からたくさんのファンを集めるこの地では、曲水の流れも再現され、多くの書道にまつわる資料も展示されています。

いまだ謎の多い治水王を祀る「大禹陵」

長い長い中国の歴史で、最初の王朝は何か。いまだに専門家の間でも定説を見るに至っていませんが、多くの研究者が夏(か・紀元前2,070ごろ~紀元前1,600年ごろ)王朝を最古のものとしています。この始祖とされるのが禹(う・名は文命)。

禹は堯(ぎょう)に命ぜられて当時人民を困窮させていた治水の任に当たり、「みずから身を労し、思いを焦がし、外におること13年、自分の家の前を通っても入らず、衣食を節して鬼神の供えを豊かにし、(中略)益に命じて人民に湿地に植える稲を与え…」と司馬遷の大著『史記』(夏本紀)にも記述があるように、獅子奮迅の働きを見せました。

この功績によって天子に奉ぜられ、それ以降徳政を敷いて人民を助けたと伝えられています。秦の始皇帝も中国統一後に会稽山に登り禹を祀ったといわれているとか。紹興のはずれに禹の墓陵とされる大禹陵があり、遙か遠い中国に思いを馳せることができる人気の観光スポット。広大な公園では紹興名物烏篷舟に乗ることもできます。

紹興に伝わる悲恋の物語

魯迅故里のほど近く。沈園という昔の庭園に、南宋の四大家といわれる詩人陸游(りくゆう・1125~1209)の歌碑があります。若いころから秀才として知られながらも、時の権力者に疎まれて落第。以降長く地方に勤め恵まれない日々を過ごしました。そんな彼が最初に結婚したのが母の姪でもあった唐えん(とうえん)。

2人は仲むつまじく暮らしていましたが、身内に不幸が重なり、祝いの日に唐えんが頭につけていたかんざしが落ちて割れる凶兆が。思い悩んだ実母が占い師に相談したところ「別れさせた方がいい」。命令を受け入れざるを得なかった2人は泣く泣く離婚し、それぞれ別の伴侶と再婚します。

ところが、ある日沈園を散策していたところ、陸游は唐えんとばったり再会。思いを残した唐えんは陸游に酒を贈りました。このとき陸游が沈園の壁に書き付けたとされる詩が『釵頭鳳(さとうほう)』。以降、唐えんは夭折し、陸游は晩年に至るまで彼女のことが忘れられなかった・・・という悲恋の話が残されています。いま、沈園には陸游の記念館が併設され、庭園にある歌碑の隣には唐えんからの返詩も。多くの人がこの地で彼の功績と悲恋のエピソードを味わうことができます。

釵頭鳳※(読み・幸田露伴)

鳳凰の頭のかんざしの意味

紅酥手(紅酥の酒、)
黄縢酒(黄藤の酒、)
滿城春色宮牆柳(満城の春の色、宮墻の柳。)
東風惡(東風悪しく、)
歡情薄(歓情薄し。)
一懷愁緒(一懐の愁緒、)
幾年離索(幾年の離索。)
錯錯錯(錯、錯、錯。)
春如舊(春は旧の如く、)
人空痩(人は空しく痩せたり。)
涙痕紅鮫透(泪の痕 紅んで鮫透る。)
桃花落(桃の花は落ち、)
閑池閣(池閣閑かなり。)
山盟雖在(山盟は在りと雖も、)
錦書難托(錦書も托け難し。)
莫莫莫(莫、莫、莫)

紅い爪の白く柔らかな手で
黄紙で封をした酒を注いでくれるが、
街は春盛りなのに柳には手を触れられない。
春風が憎い。
巡り会っても喜べない。
悲しい別れから、
何年離れて暮らしたろう。
間違いだった。間違いだった。間違いだった。
また春は巡ってきたけれど、
あなたは空しく痩せてしまった。
涙が頬を伝いハンカチを濡らす。
桃の花も落ちて、
この池の閣も閑かだ。
あのころ山のように愛を契ったが、
もう想いのこもった書も受け取れない。
悲しい、悲しい、悲しい。

理想に燃えて散った悲劇の革命家、秋瑾

日本に関わりのある紹興出身のもうひとりの人物。それが革命家として名を馳せた秋瑾(しゅうきん・1875~1907)です。

紹興の名家に生まれ育った彼女は、やがて湖南省の富豪に嫁いで子供をもうけながらも、単身日本へ留学し革命の志を持ちました。おなじころ日本に留学していた魯迅も東京で秋瑾と出会っています。

その後、中国に戻って革命に身を投じ、わずか33歳で没した彼女ですが、いまだ多くの人の尊敬を集める存在。紹興の中心街に秋瑾を記念する像が建てられています。

紹興酒に縁あるスポット

鑑湖をめぐる一大スポット、柯岩風景区

まさに山紫水明の世界。世界に名だたる紹興酒を生んだ母なる水の気が、冷涼として風に渡る。ここ鑑湖に添って位置する柯岩風景区は、いにしえの紹興を想わせる自然の風景と街並みが広がり、観光客で賑わう名勝です。

奇岩に驚き、湖中の橋を渡り、烏篷舟を模した遊覧船で眺めを一望する。その雰囲気に中国悠久の歴史を思い起こさずにはいられません。園内には越王勾践が紹興酒を川に流し兵に飲ませたエピソードを再現した像などもあって目を楽しませてくれます。

中程にある休憩所で紹興酒を一杯。古い紹興を味わえる土産物屋が並んだ街では、魯迅の小説『阿Q正伝』の登場人物たちが迎えてくれるハプニングも。歴史と風景を味わいながら半日はたっぷり過ごせます。

そびえ立つ断崖を風情ある烏篷舟でめぐる、東湖

ここは中国ならではの巨大な庭園と言えるかもしれません。浙江省三大湖に数えられるという東湖。そもそもは採掘場跡の人工湖ですが、それがかえって中国の人の芸術心をかきたてたのでしょうか。白い岩肌。点在する風情ある緑。

そびえ立つ断崖を配した見事な景観に整えられています。ここでも紹興名物の烏篷舟が活躍。迫り来る崖を真下から見上げる迫力はかなりのもの。遊覧コースには数カ所の洞窟もあって目も心も楽しませてくれます。

壮大な歴史絵巻を見渡す、中国黄酒博物館

古越龍山本社のとなりに、さすが紹興酒のふるさとというべき建物が完成しました。その名も中国黄酒博物館。

2フロアに渡ってゆったりとスペースがとられた館内では、古代から現代まで黄酒の歴史を時代ごとに追いながら、数多くの貴重な歴史的資料や等身大の人形による立体展示などで見学者の目を楽しませてくれます。

日本語による解説も付いているので安心。順路の最後には、お金を投入するとホログラムの女性が紹興酒を注いでくれる仕掛けも。紹興を訪れる機会があったら、ぜひとも立ち寄りたいスポットです。(一般公開未定)

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